天元ふみブログ

片付けられない感情を歌う「片付けられない女」の日常

 

ZAN☆GYAKUシーンは劇YAKU物

残虐シーンの多いコミックの広告を、
不意に目にして、食欲を失い、絶望感や不安に苦しんでいる、という友人の投稿を読んだ。
友人は、とても繊細で心の機微を上手に言葉にできる類稀なシンガーソングライターだ。
人一倍感受性も強く、それ故、傷付きやすい。
彼女が苦しんでいる「あえて残虐なシーンをダイジェストで見せることで、引きつけようとする広告」には
私もかねてから不快に思っていたが
改めて、怒りを感じた。
私は鈍い部分があるから、「うわ!」と思いつつ、「見なかったことにしよ…」ができる。
そんな私でも多少は引きずる。「あの話、どう落とし前つけるんだろう」と、展開が気にもなる。読んだら案外カタルシスかな、とも思うが、でも、そうすると、広告を載せたヤツの思う壺。ひたすらスルーすることにするが、そんな心のエネルギーを費やさねばならないことに苛立ちを感じる。

「でも、あんた、ブログに広告貼ってるじゃん、同罪でしょ」
という意見には耳を貸さない。そういう人は、「このCM嫌いならテレビ見なきゃいいじゃん」と言ってるのと同じ。敵は広告じゃない。

「残虐さ」で効果をあげたい輩が嫌い。と言いたい。


人間はそもそも残虐。生き物である以上、誰の心にも残虐性はあり、残虐なものに反応する。興奮する。動物の本能。
と、同時にその残虐性が自分や身内に向く可能性も想像できる。これは人間であるが故。想像し、不安になり悲しくなる。
そして、心のどこかで残虐性に興奮していることに自己嫌悪する。

つまり、ストーリーの本質に関わらず、残虐なシーンに触れたらそれだけで、かなり心がカロリー消費をする。
もちろん、残虐さが人間の本質である以上、小説、マンガ、映画、至るところで「残虐」が描かれる。テーマとして。手段として。
それは、いいのだ。
敵は「残虐」ではない。
もう一度言う。敵は「あえて残虐なシーンをダイジェストで見せることで引きつけようとする広告」だ。

「残虐さ」は劇薬物だ。
少量で人の心を(主にマイナス方向に)動かす。でも、作品中に用いられる場合、必然性があるのだろう。「残虐なシーン」そのものを毛嫌いして否定するつもりはない。

ただ、残虐シーンを凝縮して広告にするのは、劇薬物の取り扱いとして間違っている、と声を大にして言いたい。
見たくもない、触れたくもない人に残虐シーンのダイジェストを浴びせるのは無差別テロです。

私は残虐なものは嫌いなほう。
ホラーもグロも、サスペンスさえ、避けたい。でも、曲がりなりにも物を作る身としては、それじゃ幅を狭めちゃうなと、奮起して時々観る。
進撃の巨人」は残酷なシーンが多いと聞いていて、ずーっと気になっていたけど、触れずにきた。
でも、先日初めて読んだらすげー面白かった⭐︎てへ。

残酷ではあるけれど、読んでいて全て納得がいく。劇薬物の取り扱いうますぎる。
この作品を残酷なシーンだけ紡ぐようなセンスない広告を作ったら、それは許せないなあ。

先日の本八幡ルート14でのライブ、小浜田さんとの対バン楽しかったー
小浜田さんのラストで1曲ご一緒させて貰っちゃった。
見てみてー

“その時代が呼んでいる”

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